11月11日「介護の日」にちなみ、なら介護の日では介護について理解と認識を深める活動・イベントを行っております。

親守唄・歌会2013 入選作品集

おかあさんの じゅ文(作詩の部)
オヤジ(作詩の部)
思い出す日々(作詩・作曲の部)
親子って良いな〜(作詩・作曲の部)
父に寄せる想い(作詩・作曲の部)
中尾 壽満子「おかあさんの じゅ文」(作詩の部)

ゆうやけ雲が 遠くへ消え
静かな ふるさとの夜
風の中に うすれゆく記憶をたどる

旧満州大連で迎えた
敗戦後の苦しい生活(くらし)
空腹を訴える五人の子どもを
おかあさんは そっと抱きよせ
「明日(あした)はね…」と
じゅ文のように くりかえした

高粱の粉を溶き
岩塩をつぶして加えた
うす紫の糊がゆを
スプーンですくい
「ゆっくり ゆっくりね」と
おかあさんのじゅ文が
お腹を満たした

やさしい目 明るい声が
生きる力となって
日本(ふるさと)へ帰える想いが広がった

家族を愛し
未来を信じる強さを
教えてくれた おかあさん
あなたのじゅ文の種を
わたしは植えていきます
こどもに 孫に
日本(ふるさと)の人々の 心に

お月様がきれいな夜
思い出の頁を ゆっくりめくる風
おかあさん生きていてくださると
今年 百歳ですね

おかあさん おめでとう
おかあさん ありがとう


*敗戦から引き揚げの苦しさは、外地にいた者が一様に体験している事なので、自分の心の中に収めておこうと鍵をしています。
お母さんの作る塩おはぎのおいしさは、戦時中砂糖不足の中で絶品でした。真似して想い出しながら作ってもあの味は出せません。
中学校の参観日からかえった母が「壽満ちゃん、人の話を8割聞いてから自分の考えを2割だすのよ」と云った言葉は、私が生きている大きな教えです。

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石井 大心「オヤジ」(作詩の部)

昔は分からなかった
親の言うことなんて
聞くものかと 意地を張っていた

故郷に帰って 鏡を見ると
親父にそっくりに 似てきている

育ててくれてありがとう
稼いで支えてくれてありがとう
もう休んで 自分が楽しいことして
楽に生きていてくれ
やれることは 俺がやるから
気にしないで
元気にいてくれれば それだけでいい
ありがとう

どうでもいいことで
言い争った ただ甘えたくて
喧嘩腰だったから

久々に親父見ると 痩せて弱々しい
優しい面影は 全然変わらない

辛いことがあっても優しくて
疲れていても笑顔で 接してくれて
ありがとうの言葉しかない
もう休んで 足を伸ばしてくれ
これからは俺が 支えてやるから
元気にいてくれれば それだけでいい
ありがとう

公園で野球して キャッチボールして
夕方まで話した 今でも思い出

育ててくれてありがとう
稼いで支えてくれてありがとう
もう休んで 自分が楽しいことして
楽に生きていてくれ
やれることは 俺がやるから
気にしないで 元気にいてくれれば
それだけでいい
ありがとう


*両親が離婚して、僕は12歳の頃から父子家庭です。父は僕を育てるためにたくさんの努力をしてきました。 家事を覚えること、仕事で稼ぐこと、僕を介護すること、すべてが初めてのことでした。 それはとても大変なことでした。ときには理不尽なことで怒られることもありました。 それでも僕を置き去りにすることはなく、懸命に母の代わりを努めようとしていました。
あれから十年が過ぎました。今は父とは離れて病院で生活しています。 時々、父の人生を僕のために使わせてしまったと思います。 僕には障害があり、お金を稼いで親孝行はできません。この詩で伝わればと思い書きました。

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柏木 正子「思い出す日々」(作詩・作曲の部)

病弱な父 ちょっと厳しい母
それでもいつも笑い声と歌声は絶えなかった
父は終戦まもなく
医療も食糧も乏しい中で
57歳の若さで逝ってしまった
私達は何の手助けも出来ず
まだ人として幼かった日々

食糧難の戦後に
父は弱いからだにムチ打って 私達のため
遠くまで食べ物を求めて買い出しに
長い列に親子で並んだ思い出
でも目の前で売り切れたぞうすい
母に連れられ やみ市の雑踏
戦後のきびしい中 私達を守ってくれた

母は父よりも30年近く私達を
見守ってくれたが 心配ばかりかけ
決していい子ではなかった
でも今 孫ひ孫と父母の思いを受け継いで
明るくどんな荒波にもめげず
少しでも他人のために出来る事を
喜びとして 頑張っている

父 母に何ひとつ出来なかったけれど
時にふれ 思い出し 今を精一杯
生きる事 社会のために役立つこと
助け合う事で 許して下さい
親から子へ 子から孫へと
太い絆で伝えて欲しい
思いやりと 優しさで
思いやりと 優しさで


*大東亜戦争と終戦後を生き抜かれた私世代の親ごさんたち、私の両親も同じく苦労は大変だったと思います。 あの焼け野原の中、食糧も衣類も何もなく石けんすら手に入らず、なにもかも自分の手でしなければならない時代でした。 今の私たちから見ると本当に頭の下がる思いで、感謝でいっぱいです。

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羽賀 志津江「親子って良いな〜」(作詩・作曲の部)

「私は虫歯がないよ」って
自慢の一つだったけど
この頃 2本も抜けちゃって
笑った その顔が ちょっと可愛い

85才になったもの
仕方がないよと慰めた
「そんな歳じゃないよ」って
怒っているのが ちょっとおかしい

還暦過ぎた息子の写真に
可愛い可愛いと頬ずりしてる
あ〜しみじみと 親子って良いな〜
母の温もりが いとおしい
手をつないで歩きましょう 歩きましょう

「この人うちの嫁さん」と
今日は私が分かるのね
歌もうたって上機嫌
ここで暮らして もう4年

「早く家に帰りたい」
怒って泣いて過ごしたね
今では「泊まって行きなよ」と
居心地万点 ここが家

息子とドライブ 喜んで
嬉しい 嬉しいと涙を流す
あ〜こんな日も 忘れてしまうのね
母が笑顔で あれば良い
私も一緒に笑いたい 笑いたい
母の温もりが いとおしい
手をつないで歩きましょう 歩きましょう
歩きましょう


*父の両親と同居して25年、義父は7年前に他界しました。私の両親も早くに亡くなり、親はもう義母だけです。大切にしなくてはと思うこの頃です。
義母は若い頃(今もですが・・・)とても美人さんで、おしゃれが好きな人でした。 写真を撮る時のポーズも、まるで女優さんの様です。義父も一目惚れして結婚したそうです。

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大橋 一公「父に寄せる思い」(作詩・作曲の部)
私が生まれた朝
もちろん覚えてないけど
ふりそそがれた笑顔が
今も命にしみ込んでいる
あなたはもういないけど
時どき夢で見る
夢の中でさえ
ついつい甘えてしまう
あたりまえすぎる愛を
人は時に見失い
あたりまえすぎる愛を
傷つけてしまう時もあるけど
人は必ず帰ってゆく
心から愛された人のもとへ
今日も生きています
あなたと生きています
うまくいかない時は
何も言わず 心を痛め
うまくいった時は
誰よりも喜んでくれた
愛とはそういうもの
言葉でなく伝わるもの
耐える勇気と励ます力で
なんとか僕は人になれた
あたりまえすぎる愛を
人は時にうとましく
かけがえのない愛を
傷つけてしまう時もあるけど
人は必ず帰ってゆく
心から愛された人のもとへ
そしてまた歩き出す
あなたと歩き出す

私が死んだ時
もちろん気づいてないけど
ふりそそがれた愛が
きっと命にしみ込むだろう
そしてまた会えるだろう
あなたと会えるだろう


*昨年の12月に天国へ行った父に贈る唄です。 不思議なのですが、この唄を歌っている時は父が近くで聞いているようで、唄を通して会っているような気がします。 親が子どもに捧げる愛は、子どもにとっては、幼い頃はあたりまえの空気のようで、 それに対する感謝の想いを忘れるばかりか、うとましく思ったり傷つけてしまったりすることがあります。
どんなにぎくしゃくした親子関係があっても、最後は一番愛してくれた人の元に魂はかえってゆく、 また、それに気づいて生きる力をもらえることと父から教えられた気がします。
私が死んだ時、もしあの世で父と会えたなら、父と別れて今日まで一日一日を前向きに ひたすら生きてきたと胸を張って言えるように生きていこう、そういう決意も唄の中に込めました。

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